施設探し1⃣
新年明けてすぐに入院したじいちゃん。
仕事以外はほとんどすべて母任せだったので、若い頃から時々ボケたことをやらかしてくれた。
だから全く気づかなかった。
お正月に我が家に泊めた時、やっぱりオカシイ!と気づいた。
多発性脳梗塞。
以前、家族は福島県に住んでいたのだが、父のかかりつけの病院が東京の病院で、当時大学生で東京に住んでいた私が薬をもらいに行く役目だった。
私は興味津々でカルテを覗いた。
その時見た「一過性脳虚血発作」という病名を覚えていた。
そのことを今の主治医に伝えたら、「多発性脳梗塞」という病名がついた。
即入院と言われたが、すでに夕方でその日中の入院はムリとのことで、翌日出直すことになった。
一旦帰宅し、ネットで「多発性脳梗塞」を調べた。
「一過性脳虚血発作」の既往症がある人は「多発性脳梗塞」になることが多く、その場合「認知」を伴う。
きっちりはまってる‼️
そういうことか……。
50代60代で何度か倒れたことのあるじいちゃん。
親戚に何人か医者がいて主治医にもなってもらっていたので、普通なら入院してるところを、じいちゃんの場合は自宅で病院と同じ環境を作り安静にしながら、家業を監督し続けていた。
短気なワンマン親父だったから、現場を離れることができなかったのだ。
その頃から徐々に進行していたのかもしれない。
当時は「一過性脳虚血発作」がいずれは「認知」につながるなんてこと、医者すらわからなかったのだろう。
だって、30〜40年前に「認知」なんて言葉自体、あったかねぇ?
診察に同席するためわざわざ世田谷から来てくれた姉と、今後のことを相談。
「地震からこっち、お姉ちゃんがばばちゃんとじいちゃんをみてくれてたんだから、今度は私がみるよ。」
「みるったって、あんた、一人じゃムリだよ。Nさんにも迷惑かけることになるし。仕事だってできなくなるよ。」
「じいちゃんが来てから、できない時は仕事しないで通してきたから、なんとかなるよ。お客さん達もわかってくれてるから。。。」
私はお店を辞めてでも、親の面倒はきっちりみるつもりだった。
もう歳も歳、疲れちゃったしね。
オープン当初は「キモノのママさんがやってるショットバー」なんてもてはやされたけど、今じゃガールズバーがそこら中にあるし、こっちはガールズバーどころかおばばバー。
姉をはじめ義兄の意見は違った。
「仕事を持たない人でさえも介護は、肉体的にも精神的にもキツい。プロに任せたほうがいい。」
押し切られた。
じいちゃんが「治療」の段階にある2週間の間に何度も話し合いを重ね、結局、退院後は施設にお願いすることになった。
私からの条件は、私の行動範囲にある施設である事と施設の質…設備はもちろんのこと、職員さん達が親身であること。
だって、自分の親を預けるんだもの、どこでもいいなんてことないでしょ。
じいちゃんは病棟で2週間治療を受け、ある程度は回復した。
朝と昼の区別がつくようになった。
入院時の脳の状態は眠くて眠くてしょうがない状態だったが、昼間はずっと起きていられるようになった。
でも萎縮してしまった脳は戻らない。
時々おかしなことを言い出す。
過去の時限に戻ってしまうこともあった。
2週間して、療養病棟に移った。
療養病棟にはいろんな人がいた。
認知が進んで家族が面倒をみきれない人もいれば、アタマはしっかりしているが身体の機能だけが戻っていない人もいる。
要は治療は済んだけどまだ退院できない人達。
ほとんどがお年寄りだけど、若い人もいた。
その病院のナースも介護士の方々もとてもいい人達だったので、ずっとここでもいいかななんて思ったりした。
でも、病院だとリクリエーションとか、ないでしょ?
朝ナースが体温とか測りに来て、朝食食べて、リハビリやって、昼食食べて、午後は夕飯まで何にもない。
認知が入ってなくても、こんな毎日じゃボケちゃうよ。
だんだん表情も無くなっちゃう。
病院常駐の相談員と何度も打ち合わせて、毎週毎週姉と2人で施設の見学をした。
療養病棟に移って3カ月近くして、ようやく施設が決まった。
4月初め、桜満開の頃に施設に入居し、2ヶ月が過ぎようとしている。
やっと新しい環境に慣れ、笑顔も見られるようになった。
最初の1カ月は、しんどかったけど頑張って毎日顔を見に行った。
それからは2日に1回、今は週に2回行くようにしている。